カテゴリ
以前の記事
2014年 12月 2014年 10月 2014年 07月 2014年 05月 2014年 03月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 07月 2013年 05月 2013年 02月 2012年 05月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 10月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 お気に入りブログ
リンク
最新のトラックバック
ライフログ
rock music
JAZZ
book
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2年ぶりに川崎太一の作品群を見る。 2013年に制作した絵画およびドローイングを20数点展示していた。 2年前と比べると平面の中でイメージを定着させるための余裕というものが生まれてきているのではないかと感じた。 つまり今までの制作では川崎太一自身が画面の上でのたうち回っているような悲壮感と緊張感が漂っていたのだが、今回、その悲壮感というものは、かなり影を薄め、そのかわり彼自身、画面の上で少し遊んでみようという様子が感じられた。その結果だと思うが、2年前の絵画ではぎっしりと様々なイメージで埋められていた空間が、ゆったりと呼吸ができるような空間構成に仕上がっていた。 また以前同様、絵画に装着する額にも彼自身のこだわりが感じられる。彼は「金銭的に完成された額を購入する余裕がないから」と言っていたが、今回はそのような言い訳のためではなく、なぜ絵画全体を保護し、装飾的な額にせず、4コーナーのみに装着する額にするのかという理由がある程度明瞭化されてきたように思われる。つまり額は絵画の1部に完全に取り込むことが可能であるという川崎太一のコンセプトが感じられてきたのだ。 今回は全ての絵画、ドローイングが川崎太一の1つのテーマの基で展示したわけではない。ある作品は今までの自分を振り返りながら自問自答してみたり、またある作品は物語を創作するようなアプローチをしてみたり、はたまた、ただひたすら何も考えずにオートマトン風に描いたりと一見まとまっていないような展示に見えるが、全ての作品に共通して見えてくるこれが川崎太一だというものを感じることができる。それは全ての作品に醸し出されてくる表情、ポエムだろう。ひたすらにポエティックな川崎太一である。 私が感じた展覧会の中で一番好きな作品。 展覧会は10月13日?、14日まで グラフィティが会場です。 #
by satoru_nishi
| 2013-10-06 21:09
| アート
彼女は20年近くベルリン在住ということだが、その影響も強く感じることができる。ニューヨーク、パリ、ロンドン、地中海とは明らかに違う、北ヨーロッパの地域性を塩田の作品群から感じる。それと塩田千春は、その中に日本人の感覚をうまく融合していったのではないだろうか。 彼女の新作、ーありがとうの手紙ーは展示室を全て使った糸と2400通余りの手紙を使ったインスタレーションである。部屋全体かなり照明を落とし、そのくらい中で手紙にある程度のスポット照明を当て、ビジュアルインパクトを強く見せようとしている。その中はほとんどモノトーンの空間と言っていいかもしれない。色を感じさせない空間である。だから余計スポットの光を感じてしまう。その光を感じることによって包み込まれるような空間を大きく意識できるのだ。ただここで見せる光は希望を持った光とは感じ取れない。塩田千春が光の意味を意識していたのかどうかわからないが、希望をあまり感じさせない光というのは非常に不思議に感じた。彼女の他の作品にも同じような空気を感じた。光を感じるのだが、希望が見えない? この感覚って一体なんだろう? 人間の悲しさなのかもしれないし、この文明の悲しさなのかもしれない。私たち人間は果たして未来に希望を見出せるのだろうか? 美術館から外のじわっとした息苦しい空気に晒された時、ふとこのような 不思議な思いが頭をよぎったのだ。 #
by satoru_nishi
| 2013-07-07 21:21
| アート
高知ではなかなか珍しい女性のスカルプター(彫刻家? 立体作家?) 日本語で彫刻家というと木とか土とかブロンズ彫刻のイメージが強いので、自分で彫刻家と書いてあれっ?と思ってしまった。玉木かつこの作品はそういった従来の彫刻とは違う。立体造形と言った方がいいのかもしれない。。といってもれっきとしたスカルプチャーである。海外に持っていけば自分はスカルプター(彫刻家)と胸を張って言って欲しい。 さて彼女の作品だがネガティブの空間をいかに見せられるかということにポイントを置いてあるように感じる。ものの存在を認識するためには、何もない空間の存在が必ず必要になってくる。私たちはネガとポジの関係によってモノの存在を認識する。私たちのいうネガの空間はものの存在によって自由自在に変化する。空気の流れも生まれ、香りまでも生まれるかもしれない。つまり彫刻というのはモノを作ることのみだけでなく、ネガティブを含めた空間を認識する作業にほかならない。玉木はこの空間をつかもうとしているのだろう。 玉木の作品はその中に僅かであるが平面的なイリュージョンを加えようともしている。面の中に施された色彩がどのようにモノと関わっていけるのかということも試みている。モノの存在と虚像の関係である。今回はそれが成功しているとは言いがたいが、いろいろな方法でアプローチして欲しいと思う。そこから彼女独自の解釈が生まれると思う。 素材は鉄をメインに使っているようだが、何故、鉄なのかをもう一度考えて欲しい。鉄とは一体なんなのか玉木独自の解釈を展開してほしい。 展覧会場は玉木の作品群によって空気が張りつめた緊張感が漂っている。鬱蒼としたストリートから一線を画した心地よいギャラリー空間を醸し出していた。 #
by satoru_nishi
| 2013-05-26 15:13
| アート
久しぶりに写真展を見たが、岡本明才の作品をただ写真の作品と言っていいものかどうか戸惑ってしまう。壁に掛けられた平面の美術作品といった方がいいのかもしれない。ただそれが偶々写真という技法を使ったものであるという見方をした方がいいかもしれない。写真はここ10年急速なデジタル化によって人間の目をはるかに越えようとする明細化が進み、19世紀に登場した写真が絵画の領域を駆逐するのと同じようにデジタル化が写真の領域を自虐的に駆逐するような雰囲気になっている。岡本の作品は現在の写真という技法が直面している自虐的な要素を改めて考察してみようというふうに感じられる。その答えは岡本の作品からは見えてこないが、私たちにもう一度平面作品とは?あるいは写真という技法が芸術の領域でどういう位置に立つのかを考えさせるきっかけを作ろうとしているのかもしれない。岡本氏からどういったカメラを使ったのか、どうやって撮影したのか、どうやって印刷したのか一切聞かなかった。あくまでも美術平面作品として彼の作品と向き合いたかったこともあるが、一つ大きく感じられるのは、現代美術作品と同じような香りが私の鼻腔をくすぐる雰囲気である。5月にはニューヨークのIse Galleryで個展があるということ。ニューヨーカーをあっと驚かせるような展示を期待したいものである。彼にはそれができる可能性を大きく秘めていると感じる今回の個展であった。 #
by satoru_nishi
| 2013-02-03 14:44
| アート
先月、山中雅史の版画を見て、それから今回の絵画を見させていただいたのだが、今回の絵画作品群は本当に自由にアプローチしようとしたことがよくわかる。版画のケースは技術的な制約もあり、技術をある程度表現の一部として見せないといけないような囚われがあったのかもしれない。しかし今回展示した絵画のケースは、技術云々と言うより、もっと羽ばたきたい、もっと自由にという意識が多々見られた。 そこで問題になってくるのが、表現の中で山中雅史の求める自由とはいったい何なのかという大きなテーマが横たわってくる。 彼は長年ハンディキャップの青少年をアートを通してサポートするというアートセラピーに関わっている。深く関わってくると、当然ハンディキャップの人たちの表現に影響され、己の創作表現に疑問を持つことも現れてくる。山中はハンディキャップの人たちの表現から見えてくるエネルギーに圧倒され、健常者であるアーティストの表現の物足りなさを痛感したのではないだろうか。何が良い芸術なのか、何がすばらしいアートなのか、何を比較するのか? 山中のたどり着いたポイントは、心の存在を再確認できる表現だったようである。小品には多くハンディキャップの人たちの表現方法がとられている。ひたすら一つの行為を繰り返し、色あるいは線を描写する。その裏には何も深い意味などなく、ただただひたすら線の描写、色の表現があるというふうに。だが、山中も言っていたが、制作の最終段階に入って、どうすればいい表現となるか考えてしまうらしい。当たり前のことである。どうすれば良くなるか、どうすれば美しくなるか。でもそこに彼自身の心の葛藤が現れるのである。ハンディキャップの人たちのように自由に、でもそれを健常者である山中が追い求めてもそれは自由とは言えないと、山中は知っているのである。そして山中は更に心そのものの表現に駆り立てられる今この時ではないだろうか。 作品はイコン風なものもあれば、完全なる抽象表現もある。でもそれらの作品すべてに見え隠れるのは、彼の心の探求とその表現結果と言っていいのかもしれない。そして心の表現であるからそこには良い悪いという比較はできない。しかし山中は本当にこれで良いのかという疑問も感じているのである。 個人的にはとても好きな山中の表現であるが、それは作品の中に心の葛藤が見られるからで、山中自身はその葛藤から解放されたいと願っているのかもしれない。 #
by satoru_nishi
| 2012-05-03 21:14
| アート
|
ファン申請 |
||