]]>馴田香代展 at ギャラリーファウストhttp://petitseigo.exblog.jp/23151367/2014-10-20T22:24:00+09:002014-10-20T22:30:06+09:002014-10-20T22:23:41+09:00satoru_nishiアート
最初のころは、キュビズム的な方法で表現する人物を簡略化した表現が多く見られた。その中に社会的な意義とか、馴田の感じた社会のひずみを象徴的に表現しているように感じられたのだ。私個人的には、フランスのビュッフェのような趣をなぜか感じてしまう。
ところが今回の展覧会では、そういった象徴性は影を薄め(消滅しているわけではない)、馴田が絵画という表現は楽しいという叫びを発しはじめているのを感じた。
]]>辻野栄一展 at 星ヶ丘アートヴィレッジhttp://petitseigo.exblog.jp/22528578/2014-07-13T13:41:43+09:002014-07-13T13:41:51+09:002014-07-13T13:41:51+09:00satoru_nishiアート
木は自然の一部であり、極めてオーガニックな存在である。その中に辻野が自分自身の持つ秩序を吹き込み、オーガニックだけども全く新しい生命感を表現しようとしたのだろう。ただ辻野自身と木の間に生命の存在という意味でどういった隔たりがあるのか?あるいは木と辻野の間に生命の存在の共通点はあるのか?という意味で優れた立体、、平面作品であるにもかかわらず、深層的には曖昧さを多少感じてしまう。これは美術の中の美しさは?という定義に関わってくるもので、辻野自身が、1+1=2αをどのように理解しているかということかもしれない。私が辻野の作品から感じられるのはカオス的ではない秩序とコントロールされた宇宙に繋がっていく。
平面作品、ここではドローイングだが、ケント紙に焼いた木?の焦げ目を使ったドローイングである。非常にデリケートな制作過程を経てイメージが作られている。焼いた素材を紙に押し付け、紙の上に焦げ目が現れ、それが鉛筆なり、ペンの代わりの筆跡になるのだ。かなりの繊細さと、熟練した技術が要される制作過程である。辻野はここでも完全に道具をコントロールし、さらには彼自身が描く、完成されたイメージの再現に100%の力を注いでいる。現代の美術で大事な要素、繰り返しの構造、対立する軸の存在というものをしっかりと把握し制作に生かそうとしているのだ。ただペン、鉛筆というクラシカルな道具ではなく、焦げ目という筆跡がどうしてここに必要なのかという面をもう少し説得して欲しかった気がする。
そして秩序だった制作過程の中で生まれてくるオーガニックなイメージから浮かび上がってくる美しさは見るものを圧倒し、近寄りがたいパワーを感じさせる。そこには逃げ道をも閉じたような辻野の美に対する信念をも感じさせる。その反面、秩序から見え隠れする工芸的な要素も感じられるのは先にも言った1+1=2αをどう理解するかということに帰結する。美の根源を非常に考えさせられる展覧会である。
〜7/21(月)
]]>絵本バツ展 at ギャラリーあとりえほん、高知こどもの図書館http://petitseigo.exblog.jp/22073961/2014-05-18T21:33:24+09:002014-05-18T21:33:26+09:002014-05-18T21:33:26+09:00satoru_nishi未分類
浪越にとってこのような発表スタイルは初めての経験であったであろう。そしてかなりの可能性を感じさせるアプローチのように感じた。浪越の作品は基本的に抽象であり、それも色を強く意識させるものである。浪越は形よりも色から想像を広げていく仕掛けを10年以上追い求めている。形はほとんど見えなくなり、色が前面に押し出され主張を始めると、そこから見えてくるのは空気とか大気といった粒子が感じられるようになってくる。そこに戸浦の文が滑り込んでくる。文を読む作業は、頭の中に情景を浮かべることだろう。情景とは大抵の場合、形と色、もしくは人間の5感を触発するものも含むだろう。でもそれはあくまでも読者本人の感受が基本となる。そして読者の目の前にあるのは浪越の抽象画。その絵画はほとんど色しか見えないのだ。その色も大気を思わせるような色具合である。文を読みながら少しずつ色に誘導された形を思う自分自身に気づくのだ。絵画には文にでてくる主人公などは一切いない。そういった形象は読者に任せながらひたすら空気感を見せようとする。絵を見ながら、そして読みながら空間の広がりをじわじわ感じられる時間であった。
さて浪越の絵画は先程も言ったように、抽象表現、それも形ではなく色を感じさせる、空気を感じさせる方向にある。それもなぜか気持ちのいい空気を感じさせてくる表現である。そういった方向性の中に、その空気をどうやって広げられるかというところに試行錯誤の後が見られた。様々な実験の後が見られ、それが今の段階で完全に成功しているかと言うと、まだ途中段階と言っていいだろう。大気、空気は自由に動き回る。留まらず、常に移動を繰り返しながらまとわりついてくるのが大気かもしれない。浪越はその止まることをしない空気をキャンバスの中に定着させず、キャンバスの外に放逐させようとしているのかもしれない。非常に難しいことであるが、浪越ならできるのではとかすかな期待を抱いている。
]]>井上聡子展 at 奧物部美術館http://petitseigo.exblog.jp/21586316/2014-03-18T16:13:00+09:002014-03-18T16:41:22+09:002014-03-18T16:13:50+09:00satoru_nishiアート
井上聡子は絵本作家、あるいは絵本画家として彼女自身を確立したいのだろう。壁面には創作童話のようなストーリーを絡ませた平面作品を数多く展示している。童話というのはある意味、夢の世界を視覚的に見せるということでもあるだろう。現実的には起こり得ない事象をあたかも有るように、信じられるように見せていく。ということはある意味シュールレアリズムという分野と共通項があるようである。ただシュールレアリズムは夢の暗い領域、恐怖といったものも含む。童話ではあからさまな恐怖を抱かせるようなイメージはない。というより心の中に暖かい空気、甘い香りを送るようなジャンルなのかもしれない。
という観点から見ると、井上聡子の作品は確かな童話である。恐怖感などあり得ないのである。というよりほのぼのとした灯り、かすかに香る甘いクッキーのようなイメージを強く感じさせる。ほのぼのとした、かすかにと書いたが、強烈に感じられるということではなく、あくまでもほんのりといった感覚が井上の作品にはある。これは井上作品の大きな特徴といっていいだろう。一つ一つの作品の中にそのほんのり香るイメージが詰まっていて私たちは知らず知らずにそのほんのりさ、かすかさに染まっていくのだ。
また会場の中で鑑賞者に作品と直接戯れることができる仕掛けも試みている。現段階でその仕掛けが完全に成功しているとは思わないが、こういったアプローチはこれからもっともっとするべきであると思う。そこから新しい表現方法が生まれる可能性があるのではないだろうか。
またインスタレーションとして小さな机を並べ、そこに自分の素朴な手作り童話を見せている。そこからはなぜかしら、郷愁を感じるのは遠い昔の教室にあった机を思い浮かべるからかもしれない。
井上は過去10年の作品を今回展示している。10年の間に彼女の童話創作に対する意識、どういったコンセプトで、どうやって表現していくか、かなりしっかりとした考えになってきているようだ。ただ10年の間にまっすぐその夢に向かってきたということではないことは展示作品を見て理解できる。ある時は自分自身に対しての悩み、ある時は逆に人生に対しての喜びを感じさせる作品もある。会場内はこの10年の井上聡子自身が経験した心の変遷をあからさまにしようとしたインスタレーションなのかもしれない。一つ一つの作品自身からは井上聡子がその時に感じた思いを強く感じる。しかし会場全体からはこの展覧会の1本の大きな柱というものはそれほど強くは感じられない。個々の作品がそれぞれ独立して童話の世界を見せ、それが会場全体を埋めているような感じなのだ。個人的には会場全体を1つの童話にするような展示、会場全体が一つの別世界といったインスタレーションにすると井上聡子の心の内がもっとはっきり見えてきたのではないかと思う。会場の中をまとまったインスタレーションにすることは非常に難しい作業である。それには十二分な準備と試行錯誤を繰り返すことが必要になってくる。井上聡子はこれからその辺りのことを考えていくことが必要になってくるであろう。
これから長く続く創作活動の中で今回の個展は井上聡子にとって大きく羽ばたく礎になったのではないだろうか。これからもずっと応援したい作家である。]]>瀧石公子展 at アトリエ倫加http://petitseigo.exblog.jp/20945422/2013-11-23T17:08:49+09:002013-11-23T17:08:56+09:002013-11-23T17:08:56+09:00satoru_nishiアート
絵の具は非常に限定された種類によって構成されているようだ。それもセカンダリーの中間色といった鮮やかのものではなく、どちらかというと、少し濁りのある主張の少ない絵の具を主に使っている。多分ここにもかなり深い意味があるのだろう。それは今という時間にある原色系統から、過去に埋没していくイメージ、色も薄れ消えていきそうだけど、なぜか脳裏にしっかりと残っている色の残像といった意味があるように感じる。そう考えると、人物の姿にも同じような想いを感じる。動きは感じるのだが、それは今、この時間を生きているとして動いているというふうには感じられない。というより想い出として、人物の残像として残る一瞬のイメージとして人の姿が脳裏に刻まれているといった感じなのかもしれない。瀧石公子は人物以外にも身近にある静物にも深い意味を持たせているように感じる。どちらかというとシンボリックに見えるのだが、古典的なシンボルということではなく、彼女自身にとっての個人的なシンボルと捉えていいのかもしれない。
画面の構成は全体の統一感をかなり意識し、画面から感じられる空間は大きく広がりを見せている。ただ全体のリズムという面では、これから深く考える余地がありそうだ。
最初も言ったようにノスタルジックなイメージ、郷愁といったなんとも不思議な空間に誘い込む今回の展覧会である。
]]>岩合泰治 at ギャラリー邦http://petitseigo.exblog.jp/20932872/2013-11-21T22:57:28+09:002013-11-21T22:57:35+09:002013-11-21T22:57:35+09:00satoru_nishiアート
岩合泰治は83歳という年齢にもかかわらず彼の作品からとても新鮮で瑞々しさを感じる。新鮮というのはこれから訪れる時間、まだ見ぬ風景といった未来の時間軸に対する希望というものを包括しているかもしれない。彼の作品と対面すると何とも言えない透明感を感じ、ずっと先にまだ見えない時間の流れとか、まだ見ぬ空気を一瞬味わったような思いにさせられる。そしてその感覚が何ともいえない心地良さがあり、非常に不思議な感覚に包み込まれるのだ。
岩合泰治は今の高知で最も尊敬できる、そして最もすばらしい画家であろう。絵画の制作は、というより美術制作は知的肉体労働から生まれるものである。汗を流さない(物理的な意味ではなく)作品には感動がない。頭脳の試行錯誤のない作品にも感動がない。これは人間として生き、創造に関わる上で欠くことのできない要素だと思う。岩合泰治はまさに知的肉体労働を繰り返し行った結果として今の作品が生まれたと言っても過言ではないだろう。
さて岩合泰治の作品だが、抽象と具象の要素がうまく絡み合っている。抽象を少しずつ単純化する、具象を少しずつ単純化すると、あるところで接点が生まれ、統一化されるといった感覚だろう。その基本となるのが岩合自身が幼少時に感じ取った原風景かもしれない。岩合泰治の制作は行ったり来たりを繰り返す終わりの見えない作業であるはずだ。その中で岩合自身は色のハーモニー、形のリズムといった、もしかすると音楽を作っていくような過程を踏んでいるかもしれない。色は音を醸し出し、形はリズムを醸しだす。そして1枚の作品から壮大なシンフォニーとなって私たちの前に姿を現す。岩合泰治はそのシンフォニーを作り出す指揮者もしくは作曲家と言えるのかもしれない。
アメリカの画家、リチャード・ディーベンコンのオーシャンシリーズというものがあるが、共通の要素を多分に含んでいる。また制作過程ではジャコメッティ、ルオーのようなひたむきに見つめ、追求する姿勢は非常に共通しているだろう。そういった共通項を土台にして、岩合泰治の誰にも真似のできない岩合泰治絵画ワールドがしっかりと確立していると思う。
この文を書いていて私は何にもない真っ白い部屋に岩合泰治の作品を1点のみ壁に掛け、1日ずっと見ていたいという欲求にふと駆られた。
]]>山崎道展 at 沢田マンションギャラリーhttp://petitseigo.exblog.jp/20892391/2013-11-20T15:22:49+09:002013-11-20T15:22:45+09:002013-11-20T15:22:45+09:00satoru_nishiアート
さて今回の作品群だが、山崎道は余計なものをそぎ落とし、平面の本質的なものに探りを入れ始めたのかもしれない。それが成功しているのかどうかはわからないが、平面あるいは絵画の本質の扉をゆっくりと開け、光が漏れ、それを感じ始めたような感じかもしれない。
平面作品あるいは絵画は色彩と形が基本となる。その二つの要素をどう理解していくのか、それは作家各々違うのだが、どんなに変化を加えようとも色彩と形に戻って作品を解釈することになる。
山崎道はその色彩に関して、かなりはっきりした考え、見方をしている。色彩は光につながるといった見方なのかもしれない。ところが、もう一つの平面の要素、形に関してはかなり苦労しているように見える。どうすれば全体のハーモニーを作り出すことができるのか、どうすれば統一感を生み出すことができるのか、どうすれば形の中に光を見出すことができるのか、山崎道は様々な試みを行っている。 この展覧会の作品群の中では、はっきりとした答えは今だに見つかってはいないのだろう。しかし、ここでストップしてはいけないという山﨑道の内なる声も作品群の中からまた聞こえてくるのである。ここから彼女がどういった道を模索して行くのか大変楽しみである。ただ山崎道が平面作品、絵画の中に光ありという最も神秘で重要な基盤に触れ、それを感じ取ったことは彼女自身、素晴らしい宝物を得たことであろう。
]]>祖父江建樹展 at グラフィティhttp://petitseigo.exblog.jp/20697616/2013-10-27T15:18:16+09:002013-10-27T15:17:27+09:002013-10-27T15:17:27+09:00satoru_nishiアート
さて今回の彼の展覧会であるが、今までの流れから少し変化を加えようとしているのが伺える。青を基調にした画面、そして写真で見られるドット風な描き方から、ニヒリスティックでありポエティックなイメージを連想させる今までの雰囲気。祖父江はそこに新たなフェノミナンを模索しているようだ。今はそれが何なのか、はっきりとは把握できない。しかし青からの脱却を図ろうとしているのは確かだろう。それが他の色を模索しつつ、でも逆に色を消去する方向に向かっているのかもしれない。そうすることによって今までのニヒリスティック、ポエティックなイメージが変わっていくことを祖父江は期待しているのかもしれない。
作品は彼の卓越したグラフィックデザインの技術を駆使しているため、瞬時にしてイメージの把握が可能となっている。逆にそのことが美術としての奥深さを消し去っていることも歪めない。作品のデザイン性は時には良い美術作品の持つ神秘性と相反することもあるようだ。
展覧会は11月4日まで。足を運んで彼の作品と向き合い、人生の旅を考えるのも良いかなとふと思った。
]]>川崎太一展 at グラフィティhttp://petitseigo.exblog.jp/20523390/2013-10-06T21:09:50+09:002013-10-06T21:10:03+09:002013-10-06T21:10:03+09:00satoru_nishiアート
2013年に制作した絵画およびドローイングを20数点展示していた。
2年前と比べると平面の中でイメージを定着させるための余裕というものが生まれてきているのではないかと感じた。 つまり今までの制作では川崎太一自身が画面の上でのたうち回っているような悲壮感と緊張感が漂っていたのだが、今回、その悲壮感というものは、かなり影を薄め、そのかわり彼自身、画面の上で少し遊んでみようという様子が感じられた。その結果だと思うが、2年前の絵画ではぎっしりと様々なイメージで埋められていた空間が、ゆったりと呼吸ができるような空間構成に仕上がっていた。
また以前同様、絵画に装着する額にも彼自身のこだわりが感じられる。彼は「金銭的に完成された額を購入する余裕がないから」と言っていたが、今回はそのような言い訳のためではなく、なぜ絵画全体を保護し、装飾的な額にせず、4コーナーのみに装着する額にするのかという理由がある程度明瞭化されてきたように思われる。つまり額は絵画の1部に完全に取り込むことが可能であるという川崎太一のコンセプトが感じられてきたのだ。
今回は全ての絵画、ドローイングが川崎太一の1つのテーマの基で展示したわけではない。ある作品は今までの自分を振り返りながら自問自答してみたり、またある作品は物語を創作するようなアプローチをしてみたり、はたまた、ただひたすら何も考えずにオートマトン風に描いたりと一見まとまっていないような展示に見えるが、全ての作品に共通して見えてくるこれが川崎太一だというものを感じることができる。それは全ての作品に醸し出されてくる表情、ポエムだろう。ひたすらにポエティックな川崎太一である。
私が感じた展覧会の中で一番好きな作品。
展覧会は10月13日?、14日まで
グラフィティが会場です。
]]>塩田千春展ーありがとうの手紙 at 高知県立美術館http://petitseigo.exblog.jp/19972009/2013-07-07T21:21:00+09:002013-07-07T21:25:14+09:002013-07-07T21:20:55+09:00satoru_nishiアート七夕の日がオープニングということだが、手紙を短冊のような形で表現しているのはやはり7月7日を意識しているのだろうか?とふと思った。塩田千春の表現はスケールが大きい。イメージは複雑でもなく、むしろ非常にシンプルなコンセプトでシンプルな表現をしている。そうすることで鑑賞者が、よりダイレクトに大きなスケールと彼女の思いを感じることができるのだろう。
彼女は20年近くベルリン在住ということだが、その影響も強く感じることができる。ニューヨーク、パリ、ロンドン、地中海とは明らかに違う、北ヨーロッパの地域性を塩田の作品群から感じる。それと塩田千春は、その中に日本人の感覚をうまく融合していったのではないだろうか。
彼女の新作、ーありがとうの手紙ーは展示室を全て使った糸と2400通余りの手紙を使ったインスタレーションである。部屋全体かなり照明を落とし、そのくらい中で手紙にある程度のスポット照明を当て、ビジュアルインパクトを強く見せようとしている。その中はほとんどモノトーンの空間と言っていいかもしれない。色を感じさせない空間である。だから余計スポットの光を感じてしまう。その光を感じることによって包み込まれるような空間を大きく意識できるのだ。ただここで見せる光は希望を持った光とは感じ取れない。塩田千春が光の意味を意識していたのかどうかわからないが、希望をあまり感じさせない光というのは非常に不思議に感じた。彼女の他の作品にも同じような空気を感じた。光を感じるのだが、希望が見えない? この感覚って一体なんだろう? 人間の悲しさなのかもしれないし、この文明の悲しさなのかもしれない。私たち人間は果たして未来に希望を見出せるのだろうか? 美術館から外のじわっとした息苦しい空気に晒された時、ふとこのような 不思議な思いが頭をよぎったのだ。]]>玉木かつこ展 at 沢田マンションギャラリーhttp://petitseigo.exblog.jp/19583806/2013-05-26T15:13:39+09:002013-05-26T15:13:35+09:002013-05-26T15:13:35+09:00satoru_nishiアート
さて彼女の作品だがネガティブの空間をいかに見せられるかということにポイントを置いてあるように感じる。ものの存在を認識するためには、何もない空間の存在が必ず必要になってくる。私たちはネガとポジの関係によってモノの存在を認識する。私たちのいうネガの空間はものの存在によって自由自在に変化する。空気の流れも生まれ、香りまでも生まれるかもしれない。つまり彫刻というのはモノを作ることのみだけでなく、ネガティブを含めた空間を認識する作業にほかならない。玉木はこの空間をつかもうとしているのだろう。
玉木の作品はその中に僅かであるが平面的なイリュージョンを加えようともしている。面の中に施された色彩がどのようにモノと関わっていけるのかということも試みている。モノの存在と虚像の関係である。今回はそれが成功しているとは言いがたいが、いろいろな方法でアプローチして欲しいと思う。そこから彼女独自の解釈が生まれると思う。
素材は鉄をメインに使っているようだが、何故、鉄なのかをもう一度考えて欲しい。鉄とは一体なんなのか玉木独自の解釈を展開してほしい。
展覧会場は玉木の作品群によって空気が張りつめた緊張感が漂っている。鬱蒼としたストリートから一線を画した心地よいギャラリー空間を醸し出していた。
]]>岡本明才展 at 沢田マンションギャラリーhttp://petitseigo.exblog.jp/18535040/2013-02-03T14:44:32+09:002013-02-03T14:43:52+09:002013-02-03T14:43:52+09:00satoru_nishiアート
]]>山中雅史展 at グラフィティhttp://petitseigo.exblog.jp/17498424/2012-05-03T21:14:25+09:002012-05-03T21:14:21+09:002012-05-03T21:14:21+09:00satoru_nishiアート
そこで問題になってくるのが、表現の中で山中雅史の求める自由とはいったい何なのかという大きなテーマが横たわってくる。
彼は長年ハンディキャップの青少年をアートを通してサポートするというアートセラピーに関わっている。深く関わってくると、当然ハンディキャップの人たちの表現に影響され、己の創作表現に疑問を持つことも現れてくる。山中はハンディキャップの人たちの表現から見えてくるエネルギーに圧倒され、健常者であるアーティストの表現の物足りなさを痛感したのではないだろうか。何が良い芸術なのか、何がすばらしいアートなのか、何を比較するのか?
山中のたどり着いたポイントは、心の存在を再確認できる表現だったようである。小品には多くハンディキャップの人たちの表現方法がとられている。ひたすら一つの行為を繰り返し、色あるいは線を描写する。その裏には何も深い意味などなく、ただただひたすら線の描写、色の表現があるというふうに。だが、山中も言っていたが、制作の最終段階に入って、どうすればいい表現となるか考えてしまうらしい。当たり前のことである。どうすれば良くなるか、どうすれば美しくなるか。でもそこに彼自身の心の葛藤が現れるのである。ハンディキャップの人たちのように自由に、でもそれを健常者である山中が追い求めてもそれは自由とは言えないと、山中は知っているのである。そして山中は更に心そのものの表現に駆り立てられる今この時ではないだろうか。
作品はイコン風なものもあれば、完全なる抽象表現もある。でもそれらの作品すべてに見え隠れるのは、彼の心の探求とその表現結果と言っていいのかもしれない。そして心の表現であるからそこには良い悪いという比較はできない。しかし山中は本当にこれで良いのかという疑問も感じているのである。
個人的にはとても好きな山中の表現であるが、それは作品の中に心の葛藤が見られるからで、山中自身はその葛藤から解放されたいと願っているのかもしれない。