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小さなコーヒーショップ兼展示スペースに全く違った表現方法をもった2人のアーティストの展覧会だったが、ある意味、展示方法としてかなり苦しかったように見受けられた。逆にこんな見せ方も有りなのかと思わせてもくれた。 北村善子は抽象表現的で画面から作家の内面が溢れ出てくるような力強さを感じる。 乙丸みちは童画的でイラスト風な柔らかいイメージをペンで表現している。どちらかと言うとプリミティブ的といって良いのかもしれない。 作品のイメージは非常に極端に対照的で北村は画面全体からエネルギーを外に発散させているのに対して、乙丸は画面の中に鑑賞者を引き込んで溜め込んでいくような感じがする。 2人の作品のサイズも非常に対象的で、北村はギャラリースペースからはみ出すような大きさなのだが、乙丸は手のひらに入るような小さな作品を展示している。鑑賞する時は、作品に対して引きという距離感が必要であるが、2人の間では鑑賞者が作品に近づいたりさがったりを繰り返して鑑賞することが必要になってくるのだ。 これほどまでにイメージの違いのある作品を一つの空間に共存させようとしたのは相当の覚悟がないとできないことであると思う。全体を見終わって案の定、かなりの消化不良と、混乱したイメージが頭の中を駆け巡った。これは2人の作家の意図されたことなのか、それとも収拾がつかなかったのか分からない。 個人的には、2人の作品はそれぞれ別の空間で羽ばたく方が良かったと感じた。 北村にはキタムラの味、乙丸には乙丸の味があり、それを最大限に引き出すにはそれぞれ独自の空間が必要だったような気がした。 ただ、再度言うが、この展示は鑑賞者にある一種見ることに対して疑問を投げかけているようにも捉えられるのだ。通常あるような統一された空間を全く無視するようなカオス的なアプローチが秘められているのかもしれない。 #
by satoru_nishi
| 2014-12-24 16:48
| アート
アーティストインレジデンスプログラムを組み込んだ地方からの発信という展覧会である。高知在住の作家と都市圏で活動、活躍している作家と触れ合える場所と機会を設ける意味合いも含ませた展覧会のように思われた。レジデンスは2週間だったということだが、制作期間を考えると少々短いかもしれない。せめて1ヶ月というスパンで制作活動できればもっと違った表現が可能ではなかったかと思わされた。高知在住作家はレジデンスではなく、彼らのアトリエで制作した作品を須崎市街地(地方の小都市にみられる過疎化が進んでいる)にある商店などの空きスペースを利用して展示していた。高知では数年前からいの町で開催されている「イノビオーダー」が同様の市街地にある空きスペースでの展示が既に行われており、過疎化が進む市街地の活性化をアートの力でという趣向なのかなというふうに感じられた。レジデンスで制作された作品は須崎マチカドギャラリーという旧商家をギャラリースペースにしたところでの展示となっていた。 マチカドギャラリースペースだが、まだ改装中なのかもしれないが、昔からの日本家屋の趣を保ちながらギャラリーという展示スペースに融合させようとしてるのか、それとも展示ということをメインに考えて改装して使用しようとしているのか、少々曖昧さが残る感じ。当然そういうスペースでの展示はかなり難しく、作家たちが制限ある制作時間と共にスペースをどのように理解しようとしたのか苦労して展示していたのが感じられた。そいう意味では各作家共々、完全に満足いく展示ではなかったのではと感じられた今回の展示風景である。高知在住の作家たちも然りである。市街地の使われなくなった空きスペースをどうやって作家の世界に昇華させることができるのか、ただその空間を使えばいいというだけのことではないはずである。足を運び、その空間を見たいということは作品が今まであった通常の空間が全く違った異空間として感じたいということではないだろうか。そういう意味から言うと作家たちの相当な覚悟も必要になってくる。今回の現代地方譚2はその覚悟という意味でまだまだ足りないところがあるような気がする。 しかし、ここで大事なことは、地方からの発信ということだろう。アートの世界は経済と深く繋がっていく。お金が集まるところに新しいアートも集まってくるのは世の常である。そういう意味では日本の場合、東京という経済の中心にアートも集まってしまうのである。しかし経済の循環から取り残されていく地方、さらには過疎化、高齢化という条件の中で、アートの存在意義とは?またそういった中でのアートの方向性とは?を考える時、まずレジデンスという意味はかなり大きいと思う。欧米ではアーティストコロニーとして芸術家滞在型のレジデンスがいたるところにある。多くは財団がバックアップしてコロニーを運営したり、村営であったり、またヨーロッパでは国が運営するところもある。しかしほとんど全てがその地域と交流することが最低条件の滞在なのである。地域住民に作品解説したり、地域の子供達に創作教室、あるいは講演する。こういった交流がその小さ共同体に大きなエネルギーをもたらすようである。日本にはまだそのようなコロニーが見当たらない。若しかしてこの須崎がコロニーを生み出すような可能性を秘めているのではと感じさせてくれた。まだまだ発展途上であるが、この企画をした面々は大きな熱意と情熱を抱いているに違いない。それを感じさせる現代地方譚2であった。展覧会自体はまだまだこれからである。作家たちも相当の覚悟を持ってこの企画に臨んんで欲しい。高知の田舎のそれも過疎化の進んだほとんど目に止まらない展覧会と思わないで欲しい。ここから大きな岩を動かすんだという気概を持って創作して欲しい。 #
by satoru_nishi
| 2014-10-27 21:46
| アート
最初に馴田香代の作品に出会ったのは、かれこれ4,5年前になる。それ以来かなりのスピードで彼女の作品は表現の幅を広げていったように思える。 最初のころは、キュビズム的な方法で表現する人物を簡略化した表現が多く見られた。その中に社会的な意義とか、馴田の感じた社会のひずみを象徴的に表現しているように感じられたのだ。私個人的には、フランスのビュッフェのような趣をなぜか感じてしまう。 ところが今回の展覧会では、そういった象徴性は影を薄め(消滅しているわけではない)、馴田が絵画という表現は楽しいという叫びを発しはじめているのを感じた。 そもそも絵画として成り立つ条件とはいったい何だろう? 平面の上に色があり、形があり、その組み合わせによっていろいろなリズムとハーモニーが生まれる。そして統一感とかコントラストが見られて、たまに全体から心が揺さぶられる感覚に襲われる表現に出くわすのだ。ただそういったふうに理屈をこねて批評的にいっても、制作者にとって最も大事なのは描きたいという心なのである。描く当事者が、本当に表現したいという感覚を持っているのか、本当に描きたいという心を携えているかどうかということなのだ。 馴田香代の作品群を見ていると、彼女は描きたい、表現したいという心が詰まっているんだと感じてしまう。 今までは彼女自身が描く絵画を通して何か社会的なメッセージ、あるいは思いを伝えるような雰囲気であったのが、今回は絵画自体を馴田が自由にさせたという感じを受けるのだ。気負いとか大袈裟といったものは全く感じられず、ただ馴田自身が描くこと、表現する楽しみを会場一杯に見せていると感じられた。 会場にはほとんど抽象化された作品群と、以前から続けている具象的な人物の作品群がある。どちらも馴田香代が自分に制約を加えず、ただ表現したいんだという思いが伝わってくる作品群である。これからどう変化していくのか、そしてどう自分の心と向き合っていくのか楽しみでもある。 #
by satoru_nishi
| 2014-10-20 22:24
| アート
何年ぶりかで辻野栄一の彫刻とドローイングを見た。以前は木と石を組み合わせた作品であったが最近は木のみで作品を作っているらしい。質感を木の種類、あるいは表層に手を加えることによって変化を見せ、全体のイメージに視覚的なボリュームを与えようとしている。 木は自然の一部であり、極めてオーガニックな存在である。その中に辻野が自分自身の持つ秩序を吹き込み、オーガニックだけども全く新しい生命感を表現しようとしたのだろう。ただ辻野自身と木の間に生命の存在という意味でどういった隔たりがあるのか?あるいは木と辻野の間に生命の存在の共通点はあるのか?という意味で優れた立体、、平面作品であるにもかかわらず、深層的には曖昧さを多少感じてしまう。これは美術の中の美しさは?という定義に関わってくるもので、辻野自身が、1+1=2αをどのように理解しているかということかもしれない。私が辻野の作品から感じられるのはカオス的ではない秩序とコントロールされた宇宙に繋がっていく。 平面作品、ここではドローイングだが、ケント紙に焼いた木?の焦げ目を使ったドローイングである。非常にデリケートな制作過程を経てイメージが作られている。焼いた素材を紙に押し付け、紙の上に焦げ目が現れ、それが鉛筆なり、ペンの代わりの筆跡になるのだ。かなりの繊細さと、熟練した技術が要される制作過程である。辻野はここでも完全に道具をコントロールし、さらには彼自身が描く、完成されたイメージの再現に100%の力を注いでいる。現代の美術で大事な要素、繰り返しの構造、対立する軸の存在というものをしっかりと把握し制作に生かそうとしているのだ。ただペン、鉛筆というクラシカルな道具ではなく、焦げ目という筆跡がどうしてここに必要なのかという面をもう少し説得して欲しかった気がする。 そして秩序だった制作過程の中で生まれてくるオーガニックなイメージから浮かび上がってくる美しさは見るものを圧倒し、近寄りがたいパワーを感じさせる。そこには逃げ道をも閉じたような辻野の美に対する信念をも感じさせる。その反面、秩序から見え隠れする工芸的な要素も感じられるのは先にも言った1+1=2αをどう理解するかということに帰結する。美の根源を非常に考えさせられる展覧会である。 〜7/21(月) #
by satoru_nishi
| 2014-07-13 13:41
| アート
浪越篤彦の絵画展というより戸浦隆の短文とのジョイント展という形での発表であった。といっても、ギャラリーというスペースであるわけだから、ビジュアルイメージがまず最初に飛び込んでくる。そしてその後に文を読み鑑賞していくという時間を与えられる空間であった。 浪越にとってこのような発表スタイルは初めての経験であったであろう。そしてかなりの可能性を感じさせるアプローチのように感じた。浪越の作品は基本的に抽象であり、それも色を強く意識させるものである。浪越は形よりも色から想像を広げていく仕掛けを10年以上追い求めている。形はほとんど見えなくなり、色が前面に押し出され主張を始めると、そこから見えてくるのは空気とか大気といった粒子が感じられるようになってくる。そこに戸浦の文が滑り込んでくる。文を読む作業は、頭の中に情景を浮かべることだろう。情景とは大抵の場合、形と色、もしくは人間の5感を触発するものも含むだろう。でもそれはあくまでも読者本人の感受が基本となる。そして読者の目の前にあるのは浪越の抽象画。その絵画はほとんど色しか見えないのだ。その色も大気を思わせるような色具合である。文を読みながら少しずつ色に誘導された形を思う自分自身に気づくのだ。絵画には文にでてくる主人公などは一切いない。そういった形象は読者に任せながらひたすら空気感を見せようとする。絵を見ながら、そして読みながら空間の広がりをじわじわ感じられる時間であった。 さて浪越の絵画は先程も言ったように、抽象表現、それも形ではなく色を感じさせる、空気を感じさせる方向にある。それもなぜか気持ちのいい空気を感じさせてくる表現である。そういった方向性の中に、その空気をどうやって広げられるかというところに試行錯誤の後が見られた。様々な実験の後が見られ、それが今の段階で完全に成功しているかと言うと、まだ途中段階と言っていいだろう。大気、空気は自由に動き回る。留まらず、常に移動を繰り返しながらまとわりついてくるのが大気かもしれない。浪越はその止まることをしない空気をキャンバスの中に定着させず、キャンバスの外に放逐させようとしているのかもしれない。非常に難しいことであるが、浪越ならできるのではとかすかな期待を抱いている。 #
by satoru_nishi
| 2014-05-18 21:33
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