|
ネームカード
カテゴリ
以前の記事
2011年 09月
2011年 08月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 10月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 お気に入りブログ
最新のコメント
リンク
最新のトラックバック
ライフログ
rock music
JAZZ
book
検索
タグ
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
![]() ![]() 久しぶりに横谷研二の作品を見る。 非常に静けさを含んだ作品。 同じような細長い形態を繰り返し見せることによって、まるで森の中にいるような錯覚に落ち込んでしまうようである。 素材は段ボールを薄くスライスし、編み目を見せ、半分透き通ったようなイメージを作り出している。緻密な作業を要する技術であるが、見る側にとってはそんなことに目を奪われないのはとても不思議なことである。 ギャラリー内に展示してある作品は近作だと思えるが、細長い形態に裂け目を入れようとしている。 そこには今まで保ってきたシステムに次なる発展性を生み出そうとしている思いがあるのだろう。 まだまだその亀裂はわずかであるが、この亀裂は明確に計算されたシステムをどこまで壊していくのか興味深いところである。 永遠なるシステムなど存在しないことは横谷自身もわかっているかのようだ。そして作り上げたシステムを壊すことによって次なるシステムが浮かび上がってくるのを期待しているかのようである。 ![]() ![]() 久しぶりに門田さんの作品を拝見 アルミと木を組み合わせた、ちょっとユーモアと遊び心を併せ持った作品群であった。 今の立体とはひと味違った趣があるが、個人的には彼のような立体は好きな部類である。 金属と木は一見重さが違って見える。当然金属の方が重く感じられそうだが、門田さんの作品ではアルミを使っているせいもあるかもしれないが、木よりも非常に軽く感じられる。 そのせいで、作品全体から感じられる重量感は重いというより軽くて飛んでしまいそうな感じがするのである。そして少しの風で作品はゆらゆら動くように作られている。それが作品自体にますます浮遊感を持たせているのである。実在する物体からこれほどまでに重量感を薄くさせる妙技を門田さんの作品は持っているのである。作品の大きさから感じられる重さと素材と形態から感じられる重さのギャップが私の心をくすぐる感じである。 ほかの素材を組み合わせたらいったいどういう風に感じるのだろう?とふと感じた。
展覧会タイトルである「抽象絵画の謎を巡って」からその謎解きをいかにして解きほぐそうとしたのかということを想像してしまうのだが、残念ながら謎解きをしてみたという展覧会ではない。 というより現在作家自身が今の心情を今のスタイルでもって表現を試みたという方が正しいだろう。 壮大なタイトルを持ち出したが、実をいうとあくまでも個としてどのように作品と向き合っているのか、または向き合おうとしているのかをこの展覧会で見せたのだろう。 川島明はミニマリスティックな表現を試みている。ミニマルの表現ではわずかのミスも許されない、最小の表現を持って最大のイメージを感化させる。筆跡、また色彩として最小を試みているが、すべてにおいて最小となっているかというとそうでもない。展示としてミスがないというわけでもない。ミニマルな表現であるから、そういった些細な手違いが大きく画面の中で比重を占めてくる。いわゆる心の中の揺れ、ひずみといった人間性が見えてくる。果たして作家はわずかのずれがそういった人間性を見せるということを知っていたのだろうか? 私は非常に光を感じる作品が目にとまった。光は淡い黄色と緑の間から差し込んでいるようであった。 ミニマルだが非常に人間的であり、不思議なずれを感じたのである。ミニマルだが完全なミニマルとは違うなにかが感じられた。 ![]() 北村善子は抽象表現主義の流れを大いにくみとっている。4つの壁面を赤、紺、白っぽい作品で分け、それぞれの壁面に対して感情移入しやすいように構成されていた。 個人的には紺色の壁面にもっとも魅力を感じた。 ただ様々なスタイルを飾っていることもあり、いったいどの方向に進んでいこうとしているのか、また四方八方に飛んでいってしまうかのような錯覚に陥ってしまう嫌いがあった。 北村善子の作品からは一貫して「動」というものを感じられる。その「動」をどこに持って行くかは北村善子の強い意志と決断が必要であろう。 ![]() ![]() ![]() 先月(2011/02-2/13)かるぽーとにて開催された「アクリル・油彩画展」の私の私評を1ヶ月たった今やっとここに綴りたい。 高橋幹、武内明子、藤田京子の3人展であるがいずれの作品にしてもエネルギーに満ちた平面作品を見せている。3人とも全く違った表現を目指しており、共通点といえば3人の作品は展覧会の名称である「アクリル・油彩画展」という絵画であり、そして3人の年齢といったところであろう。また違ったスタイルであるが、絵画としての色彩という点においては、それぞれ強い思いを感じる。高橋幹の作品からは心のうちに秘められた色彩、武内明子の作品からは自然から心に入り込んだ色彩、藤田京子の作品からは心から外にはき出すような色彩を感じる。 その色彩をどうやってコントロールし、まとめ上げて画面の中に納められるか、その点でいえば3人それぞれに苦悩しているように思われる。しかしその苦悩を逆に楽しんでいるのかもしれない。 細かく見ていけば、しっかりした意志というものが少々薄いという気もするが、彼らが描くことを楽しみ、喜んでいるという創作活動の根本的なことが全面に見え、私自身、非常に励まされる。 展覧会のタイトル「アクリル・油彩画展」はあまりにも曖昧すぎるのではないだろうか。逆に「3人展」と銘打っても良かったかもしれない。 ![]() ![]() ![]() 転写するとはいわゆるイメージのコピーであり、PCも同じようなことがいえるかもしれない。そこに絵の具を塗り込む人間のオーガニックな表現がどのように化学反応を起こすのか彼自身が確かめようとしているのかもしれない。画面の中で見られる水転写、PCによって表現された人間はゆがめられ、まともな人間の姿など見られない。コピーという技法の中でゆがめられた人間の姿はあたかも現代に存在する私たちのゆがんだ心を見せられているような感じもするのである。そこに伝統的絵の具を使ったペインタリーなエネルギーが絡み、ますます画面は混沌としてくる。見ていると言いようのない不安感と心の中に潜む鬱積した叫びというモノを感じてしまう。 現代のあらゆるモノがコピーとしてはびこり、それが当たり前として我々の世界を席巻し、ところが人間本来の個人としての人格が見過ごされてしまう、そのことに自ずと恐怖を感じてしまうのかもしれない。横江氏の絵画を見て改めて個人の存在意義というモノを考えさせられた。 展覧会は非常にまとまっている。特に大きいサイズの作品は個人的に素晴らしい作品だと感じた。 小品は転写(水転写ではなくて)に対する実験的なモノと感じた。それらは作品の展開としては面白いのだが方法論として問題点があるかもしれない。
今日2つの展覧会に行ってきました。 1つは「浜田尚川書道展」もう1つは「デハラユキノリ展」 浜田先生は僕の教えている学校の書道の先生で、書家としても高知では高名な方です。 お年も70をゆうに超している年配で、多くの方に慕われ人間的にも魅力のある先生です。 一方デハラ君は30代か40代で、高校の後輩ですが直接お話ししたことはありません。でも彼も僕のことは知っているだろうし、僕もいろいろな意味でデハラ君のことは気にかけています。彼はメディアにも多く登場し、今や売れっ子になりかけている上昇中のアーティストと言っていいでしょう。 スタイルも今のポップでアニメっぽい作風が特徴です。 この2つの展覧会を見て、帰ってきましたが、何かしっくりこない自分自身の気持ちに気づいているわけです。いったい何に感動したのか、というより全く感動がなかった展覧会なのです。 「僕は何に感動するんだろう???」と思ってしまいました。 美術の凄さ、何か解らないけどぴりぴりするような雰囲気、緊張感が見受けられなかったのかもしれません。 1本の線、1つの色を見せても、それだけで圧倒するような力、そぎ落とされた純粋な心の存在はこの2つの展覧会には見られなかったのでしょう。 何のための展覧会なのか、ということが僕の頭をよぎりました。 僕はギャラリーに足を運ぶとき、人間としてとても神聖なモノにふれたい、その空間に自分の体を置きたいと願っています。 技術はつたなくても良いから、何か芯に迫ってくる神聖なモノにふれたいと思っています。 制作するときも同じように人としてこれだけは必ず中心に置かなければという正直な心の存在を確認します。 残念ながら今日見た展覧会にはそのことが感じられなかったのかもしれません。 いくら多くの人たちがはやし立てても、メディアが取り上げても、アーティストとして譲ることのできない自分自身の心があります。 アートは名声を求めるモノではありません。アートは商品ではありません。マスプロダクトでもありません。 ただ有名になっていかないと、売らないと生活できないことも事実です。 ギャラリーはショップではないと思います。多くの人が賑やかに戯れる場所でもないと思います。 昔からアーティストの生活とアートでの葛藤はあります。そこで心の葛藤があっても踏みとどまらないといけないアーティストとしての領域があるはずです。 最近の世界の流れでは、その踏み止まらなければならない領域を忘れ去ったアーティストが多くなってきました。メディアは領域を消し去ろうとします。その時間だけの甘い味を大衆は欲します。メディアはそれをけしかけます。でもアーティストはなぜクリエイトしたいのか、根本を忘れてはいけないはずなのです。 2つの展覧会を見て、自分自身をもっと律しなければと、改めて感じました。 ![]() ![]() 会場全体の印象は期待を裏切らない雰囲気を持っていました。 作品は絵の具をのせる支持体に特徴があり、家屋の一部となる床材とかタイル、外壁を使っています。横田氏はたぶんこの支持体で満足している様子ではないと思います。またこの支持体で満足するといけないとも感じます。 作品のイメージは至ってシンプルな日常の一こまをいくつか組み合わせて表現したようです。そのシンプルな日常と家屋の一部をはぎ取って支持体としたところに意味があるような感じでしょう。日常の一こまはほとんど忘れ去られ、記憶の片隅にも残らないもの、ところがその日常の一こまを支える家屋というものがあるという関連性を展開をしたのでしょうか? 私自身はその関連性というより、イメージの現代性(非常に薄っぺらい描き方)と家屋という生活の基礎となる時代性(非常に時間を感じる重さ)のコントラスト、あるいはアンニュイな雰囲気に目がいきます。 作品自体は非常に今の現代性を感じました。その現代性も流行の亜流といったものではなく、彼独自の視点を感じました。 イメージの作り方にはまだまだ問題点はありますが、大きな可能性を秘めた展覧会だと感じました。 これからどのくらい脱皮を続けられるか、そして彼の求める本質に近づけられるか、興味を持って見ていこうと思います。
アートスタジオセイゴの生徒2人が高知県展に入選したということで、何年かぶりで高知県展を見に行ってきました。 生徒2人の作品はとても良かったのですが、県展の花形である洋画、日本画、立体、彫刻部門は見るも無惨な展覧会でした。 逆にアートとは、美術とはなんぞやという質問が僕の頭にわき上がってきました。 特に洋画部門の作品を見ていて、出品者の気負い、変な自己主張が会場全体を覆っていて、長く居づらい気持ちにさせられました。 これは出品者が美術を見誤っていることに起因していると思われます。もしかして審査員もそうかもしれません。作品を見て感動を覚えるのはミステリーの何者でもありません。制作のための技術に感動するということは決してありません。ただ技術の裏打ちは必要かもしれませんが、その技術を見せるのがアートではないのです。技術を凌駕するミステリーが必要なのです。洋画部門に出品されてる作品群は、「私はこのような技術を持ってるよ」「私のテクニックを見てください」と言わんばかりの陳列でした。その技術も100年、何10年前に誰かが使ったフル~イテクニックを見せているわけですから、ー私はどこの世界に迷い込んだのか?-と思わず口走ってしまうような感じなのです。これは日本画しかり、彫刻しかりです。立体は逆に技術というより、作者の信念というものが感じられない陳列でした。ただ面白いとかこれだと良いだろうというような、曖昧もかとした作品群でした。ミステリーのない、ただ人が制作したという作品を並べた学芸会的な展覧会なのかもしれません。高知県展というのは逆に学芸会的な展覧会なのでしょうか。美術を本気で、死にものぐるいで追求してるような作者を生み出そうとしている展覧会ではないのかもしれません。余暇の時間に制作して、みんなで和気藹々と見せ合うような展覧会なのかもしれません。でもそうだとしたら、その高知県展に出品した人をアーティストと呼ばない方が良いかも。結局彼らは遊びの中で制作して、アートもどきを作っているのですから。 ![]() 作品はライフサイズの人体、 それと頭部、人体のミニチュア、彫刻のためのドローイングの4種類に分かれていました。 やはりライフサイズの人体は迫力がありました。すべて女性でしたが、人体の持つ力としなやかさを併せ持つ、なにか引きつけられる構造を創っていました。 たぶんそれはヨーロッパからの西洋的な人体表現、フォームと東洋的な空気感を表現しようとしているからかもしれません。 個人的には頭部のシンプルな作品が気に入りましたが、それは作家の気負った姿があまり感じられず、非常にストレートな無心に手を動かした結果のような感じがしました。と言うことはライフサイズの作品には逆に作家の気負いと、なにかに引き引きずられてこれを造りあげたという印象を受けたのかもしれません。自分の身丈よりも、もっと大きなものを表現しないといけないという感じでしょうか。作品には作家の心が宿ります。心というものはとにかく微妙で一カ所にとどまりません。動き続ける心を静止した作品に留めるというのは不可能に近い作業だと思います。美術作家はその不可能に近い作業をあきらめずに続けていく肉体労働者です。阿部さんの作品を見てると、ここにもその肉体労働者の一人が高知にも一人現れたと内心うれしく感じてしまいました。阿部さんはまだまだこれから大きく変化するような気配があります。これからどんなに変化していくのか、どんなに脱皮していくのか楽しみにしています。 ただ「~会」に振り回されることなく、常に自分としっかり向き合う阿部鉄太郎であって欲しいと願っています。
文明が進み、社会が熟成されていく中で、社会システムがだんだんと細部にまで構築されてきているのは確実だと思う。これは社会全体にもいえるし、企業内であっても家族の中であっても大なり小なり同じようなことがいえると思う。 構築されていくとはいったいどういうことなのか最近考えている。 最初無秩序であったものが1つのシステムを見つけることによって、整理しやすく、わかりやすいと感じる空間が生まれる。 ところが人間は一つのシステムを見つけたことによって、さらにより良い空間作りに目をつけようとする。さらに一新したシステムを作ろうとする。そのとき最初に作ったシステムを排除するか、残すかによって大きな違いが生まれてしまう。文明はこの繰り返しによって発展、変化してきたように思える。時には排除したり、時には古いシステムを残し付け加えてきた結果、いつの間にか膨大なシステムが私たちの目の前に突きつけられてしまったのではないだろうか。 現在ではどのシステムを排除すべきか、どのシステムを残すべきかわからなくなってしまっているように感じられるのだ。その結果このシステムの中で身動きとれないような圧迫感を感じているのが今の文明の有様なのではないだろうか。 一人の人間には自分という存在を感じる個の空間というものがある。自由というものだと思うが、現代の膨大なシステムによってこの個の空間が非常に狭くなってきているような気もするのである。 最初は100であったのがシステムの登場によって50になり、新しいシステムの登場で25になり、次には12になり6になり3になり1になり0.5になり0.25・・・・・という風にどんどんと圧迫感を生んでいるように思える。 個の圧迫感をとるには、古いシステムを整理するしかないのではないだろうか。 今までだと、破壊という手っ取り早い方法を使用してきたわけだが、この時代ではその破壊ということよりシステムを整理するといった方法が最良と思えるのだがどうだろう。
|